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郷土守山に学ぶ研修講座 Ⅳ 1019日(水)13:3016:00

ちょっと拝見 今宿のまち、守山のまち

―本像寺と東門院そして文学からひも解く守山宿―


石の鉱物学者で珍石・奇石を求めて全国を行脚した木内石亭の墓所がある本像寺。

木内石亭と本像寺との関係など多方面にわたり取材をさせていただいた。

日蓮宗具足山 本像寺住職 藤岡 暎邦さん


―木内石亭という方は―

木内石亭(17241808)は、江戸時代後期の鉱物学者で、滋賀郡坂本で生まれましたが、栗太郡山田の名家木内氏の養子になりました。幼い頃から石類を愛し、文化5年85歳で生涯を閉じるまで石類の収集と探求に励みました。収集には並外れの熱心さで、奥州金華山(宮城県)の砂金持ち出しに失敗を重ねたあげく、草鞋(わらじ)にかくして持ち出したことも伝えられています。また彼は、京都の津島如欄(じょらん)に本草学(博物学)を学び、全国いたるところを行脚して奇石・珍石をもとめました。その数は、2千種以上を数え、「石の長者」とも称されていました。

 木内石亭の遺言により、本像寺境内に葬られた墓碑文から、石亭の人となりを伺い知ることができます。すなわち「君、天資雅澹(てんしがたん)。湖東に棲遅(せいち)し、()(ろく)、心に経ず。幼くして他に翫弄(がんろう)なく、唯奇石これ好む。」と。そして「晩節、亭を作り、湖山を延眺(えんちょう)す。香を焚き石を(しなさだめ)()てその老を養う。声明益々高し。四方好事のもの、(すなわ)ち石を以て至る。所蔵千数。その品、皆絶佳(ぜっか)なり。・・はすところ雲根志、(せき)(せん)及び百石図等、」とあります。因みに、雲根とは、雲は石にふれて生じるとの説に基づく石の異称。そして、末尾の銘には「湖上の遺老、石を以て名を成す。水と同じく潔く、石と同じく貞なり。八秩(はつちつ)の後、斯の佳城に帰す。」と結ばれています。石ひとすじの生涯を送った石亭が偲ばれます。阿波儒員(あわじゅいん)藤原憲撰并書(おい)(ばん)(のう)(ひろし)が建立しました。


―本像寺と木内石亭の関係は―

北山田木内家は、古くから代々本像寺の大(だん)(のう)であり、墓地には先祖の墓27基がまとめられています。石亭も遺言により本像寺の境内に葬られました。石亭の(いみな)重暁(しげさと)、石亭はその号、小繁(こはん)と称します。法号は(こん)岡院(こういん)小繁(こはん)(にち)(ぎよう)居士(こじ)。昆岡はチベットにある昆崙山(こんりんざん)の異名で、美しい玉を産するといいます


―住職が大切にしているものは―

 1つ目は宝物、文化財(守山指定文化財)及び文化財的価値があるもの(木内石亭墓碑と遺愛石数点・山門と袖堀)の格護です。

 2つ目は地域に開かれた道場づくりです。毎年8月20日~22日に2泊3日「青少年修養道場」の開設を行い、今年で43回目を迎えます。当山の一大イベントですね。

60名の道場生と19名の指導者が参加し、朝6:00起床。ラジオ体操をおこなって7:30から内外の掃除やぞうきんがけを行います。

 8:00から朝食ですが、子どもたちはおかゆを見て「ごはんにお湯がかかっている」とおおはしゃぎです。今の子どもたちはおかゆをあまり知らないんですね。

今年の道場では、熊本の震災にて被災された方を祈るこころを大切にし一人ひとりが「あたりまえ」のご飯や生活に対して「ご恩」を感じ、それを共感できるように、サブテーマを「恩the life~あたりまえに、ありがとう」と設定しました。サブテーマに基づいて行われた「恩 the ボード」と名づけられた企画では、身の周りに感じることができた「ご恩」を、大きな板に貼りだし、全体での共感を図りました。みんな積極的に、たくさん貼り付けてくれました。三日間、周りの存在のありがたさに気づき、優しさを培ってくれたことと思います。

もう40回を超えてしまいましたが、なかなかやめられないですね、と。(ご住職藤岡さんのお顔を拝見していると原体験が不足している子どもたちにとって「青少年修養道場」は、達成感や充実感など多くの体験を積んでいる場であるとつくづく感じられた。)

―郷土(今宿)についての想いや感想は―

 ここ今宿は、守山本宿の加宿として栄え、旅籠が並び、中世から近世にかけて中山道は交通の要衝でありましたが、近年その面影が消えゆこうとしています。そうした中で、向かいの山本正右衛門宅が数年前に町屋建築で守山市文化財に指定されました。同時代の建造物である当山の山門と袖塀も、今般往時に復元しました。歴史を大切にした街づくりを願いますね。

――――――――

木内石亭が収集した珍石を見せてもらった。全国を行脚しただけに今まで見たことのない姿・形に、時が止まったような瞬間であった。

 昔から寺小屋という制度がある。本像寺さんも子どもたちに“精神修養の場”として、長年提供されている姿勢にただただ敬服をする。

取材を通して、学校以外にもこのような地域の人が場を提供し、子どもたちに積極的に関わっていただいているところに“生きる力”としての育みや、道徳観・倫理観が培われていくように今更ながら学ばせていただいた。



本像寺と木内石亭について 資料
 


もりやまの町の由来  (資料文化財保護課)

今宿について

 守山は中山道67宿の最初の宿場であって、多くの旅館がありました。守山宿はすでに豊臣秀吉のころから起り、寛永19(1642)には宿場としての制札(せいさつ)が下げられていました。

 今宿は守山宿が満宿になったとき、吉身とともに急場しのぎの宿になったともいわれ、古い守山宿に対して新しい宿という意味で名が付いたという説もあります。

 守山宿にある天満宮宮座の「西之座(にしのざ)えぼ(おん)なり(ちょう)」では元亀(げんき)三年(1572)に今宿の名が出ています。当時は志那港(草津市)で船を上がり志那街道を通って守山まで来ると、左に折れて中山道、右に折れると伊勢村を通って東海道へ出ました。徳川初期の寛永のころは石川氏、慶安四年(1651)になって本多氏、宝暦八年(1758)には宮津藩となり、安政六年(1859)には浜松藩と次々と領王が変わっています。

 今宿と守山の間には境川(吉川)があり、この川に掛けられた橋を土橋と呼んでいます。

文政四年(1821)の記録には、橋の長さ31m、幅3.6mもある大きな川で、川岸のお茶屋では旅人たちが楽しんだようです。

 中山道沿いに日蓮宗の本像寺がありますが、日蓮の弟子である日像が開基した寺です。

日像は今浜の今井彦右衛門の力を借りて守山清水町に法華堂を建てて法を説き、文明年間に現在の本像寺の場所に堂を移しています。ここに宿院を建てて、今井氏の「今」をとって今宿と名付けたのではないかという説もあります。


もりやまの町の由来 (資料文化財保護課)

守山のまちについて

 延宝5年(1677)の守山宿絵図によると、中山道と裏町(うらまち)の角、(現在の道標横)に高札場(こうさつば)がありました。高札は一部が今も東門院に保存されています。

 道標には「(みぎ) 中山道(なかせんどう)(ならびに)美濃(みの)()」「(ひだり) 錦織寺(きんしょくじ)()()()満ミち(まみち)延享(えんきょう)元年(1744)建立」

などが刻まれています。守山宿は、朝に京を発つと()刻、守山宿に着き、「京発(きょうた)ち、守山(もりやま)(どま)り」と言われました宿場の中には「井戸」があり、宿場の防火用水として使われましたが、近年、東へ10mほどに(わく)(いし)(ふた)(いし)が移築されました。本陣(ほんじん)(わき)本陣(ほんじん)は何回も移転したようで、その場所は、天満宮あたりか、その向かいあたりが有力です。天満宮はもともと、東門院にあったものを明治の神仏分離令により現在地に移転したものです。「守山市(もりやまいち)」は有名で、盆と暮れの花市としてにぎわいました。また、守山宿の道路には稲妻型(いなづまかた)屋敷(やしき)(わり)が見られます。「守山」の地名に関して、東門院が比叡山延暦寺を守るため「東の鬼門」に建てられたという伝承は、延暦寺の(しい)()記述にはなく、出羽(でわ)の国の守山というところから移住してきたという伝承、また「(やま)守部(もりべ)」という古代の「()民制(みんせい)の名に由来するという説も根拠がなく、詳しくは分かっていません。市内には金森・守山・森川原など「もり」の名がありますが、「守山」もかつての野洲川の「森」に関連する名称ではないでしょうか。

東門院 資料


十六夜日記 資料


コース紹介
エルセンター→本像寺→東門院→筆忠→うの家→エルセンター


受講生の声

・本像寺の前はいつも通るが中に入ったことはなくて良かった。まだ、守山は知らないことが一杯ある。また、参加したい。

・守山に着て1年が過ぎた。右も左もわからず、今少しづつ便利さをかみしめています。今日は守山を勉強したくて参加した。中山道や本像寺のこと、観光ガイドの方もよくわかりやすくお話ししていただき、ありがたかった。

・本像寺さんで木内石亭先生について聞けたこと、珍石が見られたこと、美しく整備された境内を見れたことは幸せだった。今後も体が許せば参加させていただきたいと思う。

・守山の歴史を身近に感じられ参加してよかった。

・今宿のこと大変よくわかった。

・守山に8年住んで何も知らずにいたが少しわかったように思う。また、参加したい。















郷土守山に学ぶ研修講座Ⅲ 9月16日(金)13:30~16:00
ちょっと拝見 木浜のまち
-びわ湖淡水真珠-  琵琶パール もりやまで育てています。

「夢・びわ湖」 代表 辻 ひとみさん

 


「バネ」が入っているような柔軟さと謙虚さを感じるのは私だけだろうか。市議会議員としてまた、議長として、多くの方々と接して来られた経験値によるものなのか、、、。

いくつもの役員を今でも精力的に勤めていらっしゃるその素顔に迫りたく、「夢・びわ湖」の取材をさせていただいた。

―「夢・びわ湖」を立ち上げたキッカケは―

 活動を前にして、改めて赤野井湾に立って目についたのが、湖辺に散乱しているゴミの量です。とりあえず月1回、環境観察とごみ拾いから開始しました。観察していく中で、夏、湖面に咲き広がるハスが冬季には姿がなくなる現状を見て、「ハスが水質に与える影響」について調べることにしました。3年間の調査を経て、ハスの繁茂地点の湖底にはヘドロが堆積し、COD値(水の汚れ)も高く、溶存酸素も少なく、ハスのない地点と比較すると、水質、湖底の環境とも生物にとって良くないことが解り、そのデータを市に提供しました。

 平成23年には県によるハスの刈り取り除去が始められました。ハスが刈り取られ、すっきりとした湖岸には、波が打ち寄せ、メダカが群れていたその光景は今もはっきり目に浮かびます。(今年は烏丸半島にハスが全く見られない現象が起こっています。)

平成24年、「道頓堀川で水質浄化のために沈めたイケチョウ貝で真珠が育った」という新聞情報から、赤野井湾でも取り組めないか調査を始めました。

まず、貝が湾で生息できるかどうかを調査し、翌2512月、イケチョウ貝を初めて赤野井湾に垂下(すいか)しました。生息することが確認できた平成2612月、貝に真珠のもとになる外套(がいとう)(まく)を入れる手術を実施。翌27年3月、手術後の状態を確認するために貝を引き上げ、元気で育っていることを確認。現在は3か月毎に貝を洗浄し、水質と生育状況を調査しています。真珠ができるまでおよそ3年との話。どのような結果がでるか待ち遠しい思いです。


―活動をする中での苦労などは―

 やはり財源です。調査キッドの購入など水質検査にはそれなりの費用がかかりますね。


―今後の課題や抱負などは―

 赤野井湾の再生と共生ですね。生き物にも人にも優しい赤野井湾になるための活動をすることが大切です。もろこやしじみ、イケチョウ貝など多くの生き物がびわ湖というフィールドで活発に活動している。そんなびわ湖を目指しています。(「夢・びわ湖」の名称はきっとこんなところからきているのだろうと思うほど、言葉の端々に伝わるものがありました。)

 また、水質浄化への取り組みでは専門家や他団体との共同活動が必要ですね。


―――――――――――――

私もイケチョウ貝のお手伝いを行った。5、6人で船に乗り込み3か所のポイントに行き、イケチョウ貝を網から揚げ付着している泥をタワシできれいに擦ることや水質検査の作業であった。


少しずつではあるが、びわ湖の水質が浄化されているように思われる。環境問題という言葉が言われて久しいが、実際に活動されている「夢・びわ湖」のスタッフさんには頭がさがる思いだ。

滋賀の大事な水、びわ湖。人が生活をしていく中で、環境問題は間違いなく今後のキーワドになるように思われる。

「琵琶パール」は昭和40年、50年代に、中国やインド等にも輸出し最盛期を迎えていたそうだ。「琵琶パール」の復活私も願っています。



近江真珠㈱社長 浜井清久さん
 

現在、近隣の市を中心に淡水真珠の養殖が行われている。守山市も「夢・びわ湖」さんが淡水真珠の養殖に取り組みだした。そんな中、昔から淡水真珠を養殖している近江真珠㈱(木浜町)社長 浜井清久さんに取材をさせていただいた。

-淡水真珠の養殖をされて何年になりますか―

親父の代から私で2代目です。


-淡水真珠の魅力は何ですか―

貝を開けてみると、ひとつひとつ形がちがうところですね。イケチョウ貝の外套膜に肉片(ピース)を入れてそれが3年も経つと真珠層になり淡水真珠になっていきます。


―びわ湖の水質と淡水真珠の養殖の関係は-

きれいな水が良いとは限らないのです。微生物やプランクトンが豊富な水が良いのです。

北湖と南湖では北湖の方が水がきれいですが、南湖の方が微生物が豊富です。

昔はびわ湖の淵に内湖が多くあった。それが今は内湖が少なくなり、雨が降ると直接土がびわ湖に流れる。内湖があったときは土が直接びわ湖に流れることはなかった。


-課題や抱負など-

 今、ヨシが水質浄化に良いということで、琵琶湖に土台のようなものを作り無理に植えている。自然発生的に生息しているものが一番良いのに、、。
 イケチョウ貝は固有種であり、環境に弱い。ちょっとした環境の変化に非常に敏感である。どぶ貝やカラス貝は日本全国どこにでもいる生命力の強いものであるが、イケチョウ貝とは趣がちがう。びわ湖総合開発は有効的な部分もあったが失ったものもかなり大きい。びわ湖はあまり手を入れない方が良い。自然の状態に保つことが大切ですね。


――――――――

平成27年9月28日には「琵琶湖保全再生法」が交付・施行され、びわ湖を国民的資産と位置付け、その保全と再生を図ることで、湖がもたらすめぐみを将来にわたって享受できる、自然と共生する社会の実現をめざしていくことになりました。

人間と自然との共生では何も手を付けないがゆえにお互いがお互いを「共助」として醸し出す調和のようなものが育成され、それが壊れない強いものになっていくのだと改めて取材を通して感じた。



もりやまのまちの由来

木浜のまちについて  (資料文化財保護課)

 木浜の地名は、栗太郡の(ははそ)(コナラの古称でクヌギ、ミズナラなどを含めて呼んだらしい。別名イスノキ)の大樹が切られ、その葉がここに流れ集まって「木の葉の裏」と言われたことに始まるという説があります。

 町内には、木浜城跡と大槻(おおつき)氏の城跡である大槻氏城があり、(きょう)極道(どう)()(佐々木(ささき)高氏(たかうじ))が足利尊氏の命で「木浜役所」をおいて湖上の船を取り締まり、末期には進藤山城守が居城

を構えました。また、湖を利用した交通の拠点や「えり魚」の拠点で、木浜海老(えび)は名産とされていました。その昔には、長さ100mを超える大きな「えり」があり、対岸の堅田(かたた)と競っていました。

 木浜は、守山宿から通じた木浜道の終点で中山道守山宿にある道標に「このはまみち」の文字があり、港から湖西へとつながる中継地でもありました。旧木浜港から木浜橋、(りょう)福寺(ふくじ)(こう)林寺(りんじ)を通過する「木浜道」は、かつての繁栄ぶりをみることのできる古道です。町の東端にある墓地には、六地蔵が(まつ)られているほか、滋賀県で最古と言われる木造の火葬場があります。(ふく)林寺(りんじ)には、重要文化財の木造十一面観音と石造宝塔(ほうとう)2基保存されています。

また、(こう)林寺(りんじ)は、正徳(しょうとく)2(1712)年開基、(こう)照寺(しょうじ)享保(きょうほう)12(1727)年の木浜大火事で記録類が焼失したものの、(てん)(しょう)年間(15731591)に草創したと伝え、了福寺は、もと天台宗でしたが、明応元(1492)年に真宗となったといわれています。真正寺(しんしょうじ)は、(えい)(しょう)6(1509)年に中興(ちゅうこう)、享保12年に火災にあったといわれ、連光院(れんこういん)は、(えい)(かん)元(983)年に源信(げんしん)が開基と

伝えられています。


-コース紹介-
エルセンター→速野公民館→近江真珠㈱→エルセンター

―受講生の声―

・大変興味深かった。「ゴミひろい」から実行します。真珠をこの手で貝の中から出したなど感動ものでした。みなさんに感謝です。ありがとうございました。

・守山に住んで40年近くなりますが淡水真珠は草津だと思っていたので守山でも真珠ができるとは知りませんでした。これは参加せねばと思ってよかったです。びわ湖の環境が関係しているとは思いもよらなかったので、湖岸から離れたところに住んでいてついびわ湖の水質やゴミなどあまり関心を持たなかったことを反省させられました。

・びわ湖の美化のために頑張っておられること、お聞きして良かったです。私たちもできることで応援します。

・琵琶パールができるまでの苦労と労力の大変さ、環境の大切さを学びました。ありがとうございました。

・この数年探していたびわ湖の真珠を見させていただき感動しました。地元の方にも随分尋ねたりしたのですがこんな近くにあったと企画していただいき感謝しています。また、ニュースで知るだけの水質や水草の問題も、ぐっと身近に感じました。夢・びわ湖の皆様の活動も素晴らしいと思います。

・びわ湖守山で真珠を養殖していることすら知りませんでした。今回オペまで見学させていただいてありがとうございました。守山の良いところ、またひとつ発見できました。

・貴重な体験ありがとうございました。楽しく感動的な時でした。また次の講座にも期待しています.


 










郷土守山に学ぶ研修講座Ⅱ 6月23日(木)13:30~16:00
ちょっと拝見 下之郷のまち 杉江のまち
-下之郷史跡公園ともりやま芦刈園-

講師紹介(下之郷遺跡)

文化財保護課 川畑 和弘さん

 


  メガネの奥から語るその柔和な言葉には誠実の二文字がぴったりと合う。専門は日本考古学で弥生時代。わかりやすい語り口、きめ細やかな表現がとてもうまく、日ごろから気配りのできる方なのだと感じる。

職員になられて20数年、今回、下之郷遺跡についてアプローチを試みた。


-職員になられた動機は-

 出身は福岡。中学生の頃、実家の近くに遺跡が多く、先生に連れられてよく発掘調査や遺物拾いを行い、それが縁で文化祭の行事など、展示会を催すまでになりました。

 恩師から大学に行って深く考古学を勉強してみてはという言葉に後押しされ、古代史を勉強、守山市の職員として働くようになりました。


 -下之郷遺跡の特徴は-

第一はムラの周りに大きな環濠が掘られており、実は滋賀県で一番大きいものなんです。全国でも5本の指に入ります。

二つ目は地下水が豊富で出土遺物の保存状態が良いという点です。

三つ目は戦いの道具がたくさん出ている点です。縄文時代から古墳時代に移っていく中でムラ社会からクニ社会に変化をしました。特に日本のクニが誕生した謎をこの下之郷遺跡から探ることができるのです。ムラからクニへ弥生時代には100個程度のクニが統合されて約30個になっていきます。その過程で激しい戦いがあったのです。そして、国王が誕生するまでになりました。


-特に力をいれているところ、見どころは-

個人的には二つ目の地下水が豊富なため遺物の保存状態が優れているところですね。年代測定や環境分析など、科学技術が発達しています。遺跡をしっかり調査すれば守山の弥生人の生活様式が如実にわかります。地下にはすごい情報が隠されています。今後慎重に調査をしていきたいと思っています。また、弥生時代の生活環境を復元することが大切ですね。遺跡は保存するだけでなく、それを現代にどう伝え、どう活かしていくのかが非常に大事なのではないでしょうか?

社会の利便さやスピード感は大切ではありますが、自給自足やゆっくりとした時間の流れなどもう一度原点を見直すキッカケになればと思っています。


-苦労したところ、課題について-

遺跡の保護を進めていくには、地域の方々の協力が必要です。ところが弥生時代は、

2000年以上も昔の話で、今の生活感覚とは距離がありすぎます。弥生遺跡の大切さや魅力を言葉で説明するのは難しいので、「もの」を見て、比較して、感じ取れるような仕掛けづくりに苦労しています。

例えば、農業の話しをする時には、弥生時代の「クワ」「スキ」など土を耕す道具と昭和初期のものと、現代の「トラクター」を比較して、いかに進化してきたのか、あるいは退化してきたのか、考えられないかと思います。弥生の生活と現代の生活が、地域の中でつながっているということを、どこかで実感できないかと思うからです。

弥生時代と昭和30年代と現代を物や人でつなぐ作業はおもしろくもあり苦労の連続ですね。(昭和30年代にひっかかり私の方からなぜ30年代なのか質問をすると、「高度成長時代」という言葉が返ってきた。)

現代人は、物質的には豊かさを勝ち得たように見えますが、ものづくりの技や身近な自然を利用する知恵は、現代よりも昔の方が優れていたようにも思います。

地元の農業や漁業など、忘れがちな伝統文化の魅力を、遺跡のうえに立ち一緒に考えることができればと感じています。


もりやまのまちの由来 (資料文化財保護課)

下之郷のまちについて

下之郷の名は、旧守山村の下流(西)側にあるのでこのように呼ばれたのでしょう。また、守山を甲とし、下之郷を守山(おつ)としたころがありました。

 昔は、石田川の水が大変きれいだったので米を()ぎ、食器や野菜を洗い、風呂の水にも使いました。また、特産であった里芋(きれいな里芋で煮炊きしても中が真っ白)を守山や大津に売りに行く前、石田川で芋洗いをしました。「きんちゃく茄子(なす)」も有名で大津や近江八幡でも喜んで買われました。中山道から琵琶湖へ出る最短路として石田川の船曳(ふねひ)き道が利用され、町内にもその道が残っていました。江戸時代には現在の川幅の倍以上もあったと推定されます。この川の水流などを利用して2カ所に水車があり精米や製粉がなされていました。八代(はったい)神社は、延徳(えんとく)元(1489)年、現在のお旅所(たびしょ)(まつ)られていましたが、宝暦(ほうれき)4(1754)年、本殿が野洲川の氾濫で流失し、「見田(みた)」というところで発見されたので、ここに鎮座したという伝えがあります。祭神は綿津(わたつ)(みの)(かみ)で、航海安全の守護神です。町内にはかつて城があったのでしょうか、「城屋敷」、「下屋敷」、「中屋敷」と呼ばれるところがあります。

現在の集落を覆うように下之郷遺跡があります。県内最大の弥生時代の巨大多重環濠集落遺跡(国指定史跡)で、堀のような環濠には弥生時代の生活用品のほか、シカ、イノシシ、魚の骨、昆虫、植物の種子、稲、花粉などが埋もれていて、弥生のタイムカプセルと言われています。


もりやま芦刈園管理メンバー紹介

花名のアジサイの語源は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が有力であるとされています。江戸時代に長崎の出島に滞在して医療と博物研究に従事したシーボルトは、愛する「お滝さん」にちなみ「オタクサ」という名をアジサイにつけました。花言葉の「移り気」はアジサイの花の色が開花後に変化することからきています。(インターネットより)


 



  取材日、少し風が強いなぁと感じながら入口の門をくぐるとドアがパァーと開くような解放感。「もりやま芦刈園」である。

日本と西洋のアジサイがそれぞれ50品種、5,000本、計10,000本も植栽されている。



 5人の方が待っていて下さった。(もりやま芦刈園はシルバー人材センターの職員さんたちに保守管理していただいている。)


「男」とは田に力と書く。5人の方の発する言葉や顔じわから、今も、人生を生ききっている風貌が感じられる。

 

―アジサイを保存していく中で苦労している点は―

 2年前、アジサイがあまり咲かずに大変苦労した記憶があります。天候では雨が大切ですね。雨が降らない季節は心配です。観光客の方たちに、もりやまのアジサイを良い状態で見てもらうための作業がなかなか大変ですね。


―どういった作業ですか―

 すみずみまで水をやることですね。(面積は20反ほどあるそうです。)肥料ではチッソ、リン、カリウムなど与えています。「今年もきれいな花を、、、。」と愛情込めて育てることが大切ですね。


―地域とのかかわりなどありますか―

玉津地区、小津地区の同じシルバー人材センターの方たちとも(約50人)協働で除草作業を行っています。(年3回)


―珍しいアジサイなどありますか―

 真っ赤な花を咲かせる「ワシア」です。特に見てもらいたい花ですね。

 また、「アナベル」は緑から白に変化し、緑に戻る花です。


―見ごろはいつですか―

 今年は6月11日(土)、12日(日)にアジサイフェアーがあります。県外からバスで来られ、駐車場が満杯になります。一日2,000人程度来られるのではないでしょうか。たいへん賑わっています。


―県外はどちらから来られますか―

 大阪、神戸、三重あたりが多いですね。

 県内の方も合わせると年間23,000人程度、来ていただいています。



終了後園内を散策してみた。5月16日(月)の取材であったため、まだ、アジサイは咲いてはいませんでしたが、職員さんたちの手塩にかけたアジサイが、「今か、今か」と咲きこぼれるがごとく、力強い生命力を感じた瞬間でした。


もりやまのまちの由来 (資料文化財保護課)

杉江のまちについて

 町名の由来は、「小津神社の杉木立から」という説と「(すげ)繁った港、すげ江が杉江になった」という説があります。町内には『延喜式(えんぎしき)神名帳(じんみょうちょう)』に記載された小津神社があります。

 同神社は、小津の(きみ)()(しん)としていましたが、後、(しゅ)(しん)宇迦乃(うかの)御魂(みたまの)(みこと)(まつ)りました。

女神像として著名な宇迦乃(うかの)御魂(みたまの)(みこと)座像と本殿が国の重要文化財に指定されています。境内には多数の社が鎮座するほか、岩風呂が保存されています。岩風呂は、長さ約2m、幅約1m、深さ約60cmの大きな岩をくりぬいたもので、室町時代ごろの作と考えられ、当時の貴族や有力者が使ったものと思われる大変珍しいものです。境外には安土桃山時代の三之宮本殿(市指定文化財)があります。また、かつて神宮寺(じんぐうじ)であった()泉院(せんいん)が神仏分離で境外に出され、現在は護摩堂(ごまどう)と呼ばれています。

 (みょう)然寺(ねんじ)は元、江上山(こうじょうざん)清浄院(しょうじょういん)阿弥陀寺(あみだでら)と言われていましたが、寛永(かんえい)年間に明然寺と改めたと伝えられていて、「山門(さんもん)西塔(さいとう)北谷(きたたに)正蔵院(しょうぞういん)什物(じゅうもつ)」の銘のある(しょく)(だい)などがあるほか、本草は、「浮足(うきあし)弥陀(みだ)」として、知られています。正光寺(しょうこうじ)は、明応(めいおう)6(1497)年に草庵を設け、延宝(えんぽう)4(1676)年に現在の寺号になったとされています。


-コース紹介-
エルセンター→下之郷史跡公園→もりやま芦刈園→エルセンター


下之郷史跡公園・遺跡資料

もりやま芦刈園資料
 


―受講生の声―

・晴天に恵まれ、やさしいあじさいの花々に接し心安らぎました。下之郷遺跡にも以前から興味を持っていましたが、とてもわかりやすく説明していただき守山のことをもっと知りたいと思いました。

・下之郷遺跡を初めて伺って先人のすばらしさ、知恵に感動しました。もりやま芦刈園も多彩なお花に出会い大変良かったです。

・下之郷遺跡での説明を受け、より守山に愛着が湧きました。もりやま芦刈園も大変良かったです。

・守山の歴史に興味があり大変ありがたい企画だと思います。できれば“下之郷のまち”では学芸員の方ともう少し時間をいただきお話を伺いたいと思いました。

・下之郷遺跡では興味深いお話を聞けました。なんといっても復元した器に直接触れることができて驚きと感動でした。もりやま芦刈園は想像以上でした。広さも花の種類、美しさもとてもよかったです。

・下之郷遺跡でのお話は大変おもしろくすばらしい町に住んでいることに誇りに思いました。川畑先生のお話もわかりやすく弥生時代にタイムスリップした感じでした。

・天候に恵まれ、あじさいがとてもあざやかで見ごろでした。

下之郷史跡公園は川畑さんのお話がとても興味深く守山の歴史の深さに感心しました。
                                                      



郷土守山に学ぶ研修講座Ⅰ     5月26日(木)13:30~16:00
ちょっと拝見 古高のまち  ―古高俊太郎と古墳塚―

講師紹介

黒田 玲子 さん(守山市ボランティア観光ガイド協会会員

 


円熟したガイド説明には受講生を磁石のように引き付ける。その魅力、人となりにスポットを当ててみた。  

流れるような言葉の数々。人を感動させる術を心得ていらっしゃる。私の第1印象だ。


「市民に守山を知っていただく。」このことを胸にボランティア観光ガイドの会員になられて早13年。ある時は「守山案内します。」と看板を持って街頭に立ったことも今では懐かしい思い出です、と語る。守山に人が来ないのも駐車場がないから・・・、とつぶやくこともあり、その語り口にはいかにも「守山」を愛しているという側面が伺える。

―「守山」もっとどんなふうになればいいですか―

 観光客、お客さんがいて、自分の見たいところが回れる、ワンストップバスのようなものがあってもいいのでは、、、。 トイレも簡易トイレが多く、障害者トイレなどを備えた、ちゃんとしたものを増やしても良いように思う。

―「守山」のどこを変えればもっとよくなりますか―

 やはり中山道でしょう。沿道沿いの家が変わっていくのが寂しいですね。昔の風情をとり戻すことが大切ですね。

―「守山」の好きな場所、紹介したいところは―

 立入町、岡町です。立入城跡、西隆寺、立入宗継(たていり むねつぐ)など、なかなか面白いところがあります。

―今後の抱負は―

 若い人たちがもっと「守山」に来てもらうこと。私は京都より優れているところはないと思っていましたが、この「守山」は京都と東京(江戸)を結ぶ道としてロマンがあります。中山道や守山宿いいですね。

と話される表情、その目の奥にはボランティアガイドとしての誇り、経験、そして何より「守山」をこよなく慈しむ素顔を垣間見た思いでした。


古高のまちについて (資料文化財保護課より)―

 古高は、旧栗太郡物部村に属し、十郷湧(じゅうごうゆ)出庭(でば)、千代、二町など十村の農業用水)の最下流の村であったので水には大変苦労されたところです。大将軍神社は、社伝によると「正暦(しょうりゃく)年間(990995)に創始、社殿は応仁の乱で焼失し、山内(やまのうち)政綱(まさつな)の命を受けて三上(みかみ)満実(みつざね)が再建した」とあり、後、長享(ちょうきょう)元(1487)年に兵火にあい、再建されたと伝えられています。

 毎年、正月に栗東上砥山(かみとやま)から「しきみ」をうけ、神社に勧請(かんじょう)()りを飾ります。また、古くから干ばつのときに、雨乞い踊りをし、恵みの雨をもらったときに鼓踊(こおど)り(県選択無形民俗文化財で道行(みちゆき)、お礼踊りなど19の歌詞と踊り)が奉納されました。

 (えん)成寺(じょうじ)は、「日像上人開基、本堂(むな)(ふだ)(えい)(にん)6(1298)年草創」、専光寺(せんこうじ)は「承応(じょうおう)元(1652)年創立」と伝えられています。福寿院(ふくじゅいん)は、幕末の勤皇の志士「古高俊太郎」など古高氏の菩提寺で、西側の墓地には市内で最大の「イヌマキ」の木があります。福寿院の隣に「古高俊太郎」の顕彰碑があります。元治(げんじ)元(1864)年に新撰組に捕われ、後に斬殺されましたが、明治241891)年に政府から(しょう)五位(ごい)を与えられ、大正3(1914)年に栗太郡教育会が顕彰碑を建立しました。町内には「新屋敷」「南・西・東屋敷」など城郭に関連する地名があるほか狐塚(きつねづか)(まつ)(づか)幸田(こうだ)(つか)古墳、豪族の館跡や準構(じゅんこう)造船が発見された下長(しもなが)遺跡があります。



―コース紹介―                                                                                          

エルセンター→古高俊太郎顕彰碑→圓成寺→専光寺→大将軍神社→狐塚古墳→松塚古墳→幸田塚古墳→エルセンター

   

古高の鼓踊り・古高俊太郎資料

 古高俊太郎顕彰碑  

―受講生の声―

・古高俊太郎と大将軍神社に行きたくて参加した。古墳がたくさんあるのにびっくりです。でも埋められているのが残念。

・古高古墳じっくり探索し深めたい。

・守山市民(学区民)であり、古高の近くに住みながら今回のように詳しく訪れたのがよかった。人生の終章をまじかに控えて良い勉強になった。感謝してる。参考までに15年から25年前では史跡めぐりが好きで機会を得て歩き回っていた。今後とも体力が続けば、また、参加したいと思う。

・守山にも古高俊太郎という立派な方がいたのを知った。次の機会も参加したいと思う。

・古高俊太郎については郷土の古老の著作の力作により理解でき通説と少し違うことがわかった。妹の系列が本願寺~皇室につながっていることに驚いた。

・古墳群は大事な郷土遺産であり、詳しい調査をもう一度お願いしたい。

・古高俊太郎顕彰碑が見られてとてもよかった。古墳群巡りをやってほしい。

・古高の中に学ぶべき事がたくさんあり、勉強になった。家に帰ったらもう一度資料を読み返し今日の学習の確認をしたいと思う。

・黒田さんの名調子いつもながら感服です。




   

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