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郷土守山に学ぶ研修講座Ⅴ 平成29年11月15日(水) 午後1時30分~午後3時45分

ちょっと拝見 伊勢・阿村のまち
-伊勢遺跡からみえてくるもの-

守山市文化財審議会委員 大橋 信弥さんに取材をさせていただきました。


 

プロフィール

名前:大橋信弥 (かな):おおはしのぶや

名前(アルファベット/ヘボン式):ohashi  nobuya

歴史家、専門分野:日本古代史・日本考古学

研究領域:古代豪族・渡来文化・古代文化

立命館大学大学院文学研究科修士課程日本史学専攻修了(1967年)

滋賀県立安土城考古博物館学芸課長(1998~2011年)

著書 『古代豪族と渡来人』(吉川弘文館)・『日本古代の王権と氏族』(吉川弘文館)・『日本古代国家の成立と息長氏』(吉川弘文館)『継体天皇と即位の謎』(吉川弘文館)・『新・史跡でつづる古代の近江』(編著 ミネルヴァ書房)・『ヤマト王権と渡来人』(編著 サンライズ出版)

所属学会:日本史研究会・考古学研究会・近江地方史研究会


-伊勢遺跡の特徴や重要な視点について-

伊勢遺跡は、一般の人が日常的な生活をおくっていた場所(ムラ)ではなく、そこで祭りごと(政治)を行う公共的な存在であったと考えられています。現代に置き換えると、県庁や市役所と議会を合わせたようなものです。

また、建物も中心にある超大型の建物群を円弧上に囲むように、祭殿のような大型の建物が多数配置されており、全国的に見ても稀な遺跡です。

有名な『魏志倭人伝』によると、当時の倭国(後の日本)では、男王が長く王位についていましたが、新しい王を立てようとしたところ、権力争いがおこり、長期にわたって戦争が繰り返されていました。そこで、霊的能力のある一女子を王(卑弥呼、当時10歳前後)として共立することで戦いがやみ、国中が治まったと書かれています。

後に倭国の女王となる卑弥呼が、どこの出身であるかは、『魏志倭人伝』は書いていませんが、伊勢遺跡の当時における特別な役割から、この地で生まれた(あるいは幼少の頃住んでいた)可能性も否定できないかも知れません。

-守山の歴史遺産についてひとこと-

伊勢遺跡でまつりに使われていたとみられる銅鐸が、野洲市の大岩山(現在の銅鐸博物館の近く)に埋められたと考えられます。現在、同博物館には、大岩山から出土した銅鐸の実物と、レプリカですが日本一大きい銅鐸がたくさん展示されています。

弥生時代には服部遺跡、下之郷遺跡、伊勢遺跡など全国的にも著名な遺跡が、守山で集中して発見されており、当時の守山は、琵琶湖の水運を利用した物流ステイションであったとみられています。滋賀の中でも先端的な役割を担っていたように思われます。

-伊勢のまちや阿村のまちについてひとこと-

 伊勢・阿村にも住んでおられる方は、伊勢遺跡を自分たちのまちづくりに活かしたいと考えておられるようです。伊勢遺跡を地域活性化の一つとしてとらえている所がいいと思います。

-守山の文化財についてひとこと-

 県内だけでなく、県外からも伊勢遺跡には、見学や講演を聞くために多くの人々が来られます。そのためには、守山市のキャッチフレーズに「つなぐ、守山」がありますが、埋蔵文化財センターや下之郷史跡公園、伊勢遺跡などを“つなぐ”というイメージも大切ではないでしょうか。

伊勢遺跡資料

もりやまのまちの由来(資料文化財保護課)

伊勢

 守山の中で正方形の土地区域となっているのは、伊勢町だけで、東西六町(654m)、南北六町の規模で、周囲が道と川で区切られています。

 ()花園(はなぞの)天皇の(こう)(しょう)2年(1456)のとき、皇居造営費用の2貫目876文を献上した伊勢(いせ)(へい)()衛門(えもん)や、長享(ちょうきょう)元年(1487)足利(あしかが)(よし)(ひさ)佐々木高頼(ささきたかより)を討ったとき江州(ごうしゅう)伊勢(いせ)(また)(ろく)がいたことは名高く、伊勢の住人であったようですので「伊勢」の名はこのころ以前にさかのぼると考えられます。

 伊勢参りの旅人が中山道から東海道へ行くのに、この伊勢を通過し、ここから栗東市伊勢落(いせおち)(伊勢落は伊勢(いせ)大路(おおじ)ともいわれました)へ通じる道を伊勢(いせ)(みち)といいました。伊勢の神社は日吉神社で(こう)(たい)神宮(じんぐう)もまつられています。皇太神宮の祭神は(あま)(てら)()大神(おおみかみ)です。この地が、昔伊勢神宮の神領であったという説もあり、伊勢神宮の元があったともいわれています。寺は永願寺と呼ばれ、かつて天台宗でしたが真宗に転派しました。江戸時代、この寺には高僧がいて徳山(とくさん)と名乗っていました。徳山のもとには、遠く福井や秋田から弟子入りがあり、安政2年(1855年)に徳山は越前三国で没しています。昭和56年には伊勢遺跡が発見され、弥生時代後期から鎌倉時代までの巨大な集落が広がっていたことが明らかとなりました。その後の発掘調査で、弥生時代後期の大型建物が集中することが判明し、()()(たい)(こく)の所在地や国の成り立ちを探ることのできる遺跡として国内で話題となっています。


もりやまのまちの由来(資料文化財保護課)

阿村

 栗東市の大宝(たいほう)神社の(てん)(ろく)年(971)と明応2年(1493)の古記録に、「安村」という字が使われています。昔は、安村であったようですが、「安」が「阿」の文字になった時期は不明です。阿村町の(ほう)善寺(ぜんじ)と栗東市蜂屋(はちや)永久寺(えいきゅうじ)山号(さんごう)蜂屋山(はちや)といい、もともと2つの村は同村であって、後で2つに分かれたようです。阿村の神社は、春日(かすが)神社日吉(ひよし)神社が仲良く1つの境内にあります。春日神社には(たけ)(みか)(づちの)(みこと)をまつり、日吉神社は大山昨(おおやまくいの)(みこと)をまつってあります。春日神社は氏神であり、日吉神社は荘園の関係であったからと考えられます。

 阿村は昔から干ばつで苦しんだ土地です。水利が悪いため田んぼに頼ることができず、二男、三男は他所に出て働いた人が多かったらしく成功者も多かったようです。京都の九屋(ここのや)(じん)兵衛(べえ)鳥小屋伊(とりこやい)(すけ)、大阪の(かめ)谷平(やへい)兵衛(べえ)など江戸末期の商人として名高い人が阿村出身といわれます。阿村町の西側一帯には弥生時代後期(紀元1~2世紀)の「伊勢遺跡」の広がりが認められ、円周上(えんしゅうじょう)配置(はいち)の大型建物が5棟、大型(おおがた)竪穴(たてあな)建物(たてもの)が1棟など重要な遺跡が広がっています。また、集落の北側には阿村北遺跡があり、古墳時代後期の土器が見つかっています。現集落に重なって大洲(おおす)遺跡があり、中世(1315世紀)の屋敷跡があるので、阿村町の前身である可能性が高いと思われます。


会場:エルセンター 大会議室

受講生の声

・大変興味深く聴かせていただきました。

・夢のまた夢の色なり伊勢遺跡 小生は8590歳までに遺跡を見てまた、、。
・はじめての参加で素人のため内容が少し難しかった。伊勢遺跡の重要性があまりはっきりしなかった。  伊勢遺跡、邪馬台国説についてもう少し詳しく話してほしかった。特に出版された本について。
・伊勢遺跡は国にとって重要な遺跡であることがよくわかった。

・興味深く聴かせていただいた。

・身近な地域が「もしかして、もしかして」とワクワクしながらお聞きした。

 「伊勢」という地名も大変気になる。「三上山」
・机上での論議も重要であるが折角現地に近い所での会場であり、現地案内が一か所でもあれば、、、。
・大橋氏のわかりやすい講座で理解が一層進んだ。伴野氏では身近な伊勢遺跡について興
  味のある内容でした。

・興味深いお話を聞くことができ大変面白く楽しい時間であった。

・建物の公開ができる日を楽しみにしている。






学ぶ研修講座Ⅳ 平成29年10月19日(木) 午後1時30分~午後4時15分

ちょっと拝見 勝部のまち
-小粋な寺巡りと勝部自治会火まつり交流館の見学および講演-

今年4月、火まつり交流館開設にあたり勝部自治会長の小嶋 宣秀さんに交流館建設の背景等お話をお聞かせいただきました。

テキスト ボックス:








-勝部自治会火まつり交流館についての想いや展望について-

昭和45年の市制発足時、勝部自治会の世帯人口は330世帯1,400人でしたが、現在2,150世帯5,000人を超えています。

先祖代々この地で暮らしてきた人々と、新しくこの地域に移り住んで来た人々が、ともにこの地の宝物である火まつりを次世代に受け継ぐことこそ、勝部のまちにとって、最も大事なことであると考えています。このことがまさに勝部の地域力であり、この地域力を結集し、交流館を拠点に多くの人々が四季を通して楽しく集い、交流の輪を広げ、郷土愛を育み、未来に向かって新しい歴史を刻んでいくことを願っています。

-火まつり交流館の特性や地方創生についての意見をお聞かせください。-

経緯:住吉会館の老朽化に伴い、新しい会館の建設をという声がもちあがり、数年前から実行委員会を設け、検討を重ねて参りました。さまざまな意見の集約を重ねた結果、下図のようなイメージ図ができあがり、法人格「認可地縁団体勝部自治会」(経営組織的団体)として出発することが最適であると判断し、経済産業省に、火まつり交流館建設の申請を行いました。当初全国から100以上の応募があり、最終審査の結果3団体が認可されるという素晴らしい結果となりました。(H28年度地域・まちなか商業活性化支援事業費補助金として国のサポートを受ける)

特徴:中核商業施設「勝部自治会 火まつり交流館」の必要性と効果



地方創生で大切なことは、自治会がどう活性化し、住民が嬉々として集い会えるかどうかであり、住民が楽しく集うことによって自治会が活性化するということでもあります。

勝部自治会では自治会執行部とは別に、新たに火まつり交流館事業部を立ちあげ、経営的組織づくりを通して、住民同士がまちを自ら盛りあげ、育んでいこうという“心”が生まれていることが何よりうれしいです。

-まちづくりにおいて大切にしなければならないものや事柄についてありましたらお聞かせください-

市民性であり、“絆”を大切にしていかなければならないと思っています。人情や、やさしさ、温かさをまちづくりの根幹に置くことが大切です。「場づくり、出番づくり」を展開しながら誰もが活躍できるまちにしていきたいです。

西福寺、西連寺、最明寺資料

勝部のまち (資料文化財保護課)
まちの由来

 勝部という名称は、古い歴史を有する勝部神社に関係すると考えられます。

 神社の文書によると大化五年八月(約1360年前)、物部(もののべ)宿()(すくね)(ひろ)(くに)がこの地を領してその祖神をまつり、物部(もののべ)(ごうの)総社(そうじゃ)として物部神社と名付けたとあります。

 また、(りっ)国史(こくし)一つである「(ぶん)(とく)天皇(てんのう)実録(じつろく)」には、(にん)寿(じゅ)元年(851)に近江(おうみの)(くに)物部(もののべ)布津(ふつの)(かみ)

(じゅう)六位上(ろくいじょう)を、さらに「三代(さんだい)実録(じつろく)では元慶(げんぎょう)六年(882)に物部布津神(じゅう)五位下(ごいげ)と二度にわたる神階を受けたころは、物部神社と呼ばれたようです。ところが(けん)(きゅう)三年(約813年前)に神社に寄進された(とう)(ろう)には勝部(かつべ)大明神(だいみょうじん)とあるほか、元亀(げんき)年間(約433年前)に織田信長が納めた起請文(きしょうぶん)によると、勝部村勝部大明神という名がでており、既にそのころには勝部の名称が使われていたことが分かります。ただ、勝部という名の起こりは、物部守屋(もののべのもりや)

の「部」と中臣(なかとみの)勝海(かつうみ)の「勝」をとって名付けたという説と、神社の祭神、物部布津神が武神(ぶしん)であるので、「武」と「勝」という縁起のよい言葉を使って勝部となったという二つの説が考えられます。


コース紹介
エルセンター→西福寺→西連寺→勝部自治会火まつり交流館→最明寺→エルセンター







郷土守山に学ぶ研修講座Ⅲ 平成29年9月14日(木) 午後1時30分~午後4時30分
ちょっと拝見 金森のまち
金森城と寺内町そして元亀初頭の政変(-元亀争乱と金森-)
金森長近という人

滋賀県文化財保護課 松下 浩さんに取材を行いました。

テキスト ボックス:

-滋賀県で話題になっていることや特筆すべきことなどあればお聞かせください。-

まず城ですね。1,300程度の城があります。これは全国で4番目です。上位3県は岩手、福島、広島です。滋賀県は城郭密度(県の広さに対する城の数)はNO.1です。

-なぜ滋賀は城が多いのですか?-

信長、秀吉が近江を制圧する以前、強力な戦国大名がいなかったからです。各々がムラ単位で生活をしていたということです。滋賀県に城が多いのはそのためです。

-神社、仏閣と城との関係はどんな状況でしたか?-

神社や寺が領主になり主従関係を結ぶことや、武士が領主となり主従関係をむすぶこともあります。生活をする上で組織を作り、だれかが意思伝達などの統一を行い、組織づくりを行うという具合ですね。甲賀市では城が250あり、同じ形、同じ大きさのものが多いです。これは特に取り立てて強い勢力のある者がいたわけではなく、自分たちの身は自分たちで守るという理由からです。

 


-金森町についてひとこと-

金森町は街道交通の発達した要所であり、志那街道を通り、大津や堅田にいく人々が多かったようです。だからこそ蓮如上人が布教拠点として選んだところでもあります。当時重要な一大拠点であり、商業が栄え、人々の往来が盛んな町でした。織田信長が楽市楽座令を発したのもそのような土地柄からです。また、一揆を行ったところでもあり民衆の力(団結力のようなもの)が湧き出るところでもありました。

-守山市の文化財で大事にしなければならないことや、重要な視点などお聞かせください-

守山は街道が通っており宿場があります。歴史上重要な所でありますが、さまざまな歴史資料や文献を調査、分析していくベクトルをさらに強くすることが大切であるように思われます。

近隣の市では歴史博物館があり、そこに学芸員を置き、資料、文献などが充実しています。そのようなところから郷土に対する愛着やふるさとの再考につながるように思われます。図書館が新築されるとのことですが、その中に博物館的な要素をとりいれてもよいのではないでしょうか。

取材後記

 歴史を見る目が深く、言葉を選びながらお話をしていただいているという印象をもった。

守山に歴史博物館を置き、そこを拠点として歴史遺産の資料収集、調査・研究および情報を発信していくことが大切であることを痛感した。ソフト面、ハード面含めて重要な視点を語っていただいたことに感謝したい。


金森・寺内町資料



守山市と高山市の交流を推進する会 青谷 正史さんに取材をお願いしました。

 

-金森長近を知ったきっかけや特徴は-

飛騨高山の城下町を開いた金森長近が、守山市金森町の出身ということを知り、金森町と高山市の関係に衝撃を受けました。私は飛騨高山の出身で、守山に来て30年になります。高山市と守山市を結ぶ力になれないかとその時思いました。

<特徴>

高山では小学生のころから、郷土史で金森長近のことを学び、長近が築いた高山城址を見学しました。改めて長近の生涯を調べてみると、信長・秀吉・家康と三代の天下びとに重用され、数々の戦に功績を挙げながらも、文化、宗教を重んじる武将でもありました。その文化・信仰を大切にする人格は金森の寺内町を中心とする文化、経済、自然豊かな郷土近江の地で、少・青年期を過ごした時期に育まれたと思えてなりません。そのような長近をこの守山で多くの方に知ってもらいたいと思っています。

-守山市と高山市の交流を推進する会を今後どのようにしていきたいですか?課題や抱負などお聞かせください。また代表として、苦労談やこだわっている部分、人生観などをお聞かせください。-

金森長近を縁として、山々に囲まれた飛騨高山と日本一の琵琶湖に面した守山。両市のみなさんが相互に理解し、交流が深められればと思っています。飛騨高山は年間400万人の観光客が訪れます。守山も広大な琵琶湖を観光資源として持っています。守山の子どもたちと高山の子どもたちがそれぞれの特性を生かした交流(例「木工体験」「うみのこ」「ビワイチ」等)を重ねることで、ふるさとへの思いや誇りを自然な形で感じながら、のびのびと成長してゆく姿を見ていきたいと思っています。

-守山市や金森について要望やご意見があればお聞かせください。-

長近も含めて守山出身の人物をもっとアピールしてもらいたい。具体的には立入宗継や古高俊太郎などにもスポットをあてるのも良いと思います。彦根は最近石田三成で成功している。

飛騨高山の観光をされるときに、ぜひ矢嶋家(旧い町並みを治めていた守山市矢島町出身の商人)の跡地に立つ「まちの博物館」(無料)や高山城址に立つ金森長近の銅像なども見てもらいたいと思います。旅行会社にも金森長近のパンフレットなどがあればいいんですがね、、。

取材後記

飛騨高山と守山との交流を真摯に考えていらっしゃる気迫のようなものを感じた。

懐の深い方であるという印象である。高山市長とは高校の同期ということもあり青谷さんが縁で高山市長と守山市長とがお会いされ、相互交流のお話もあったようだ。高山と守山のさらなる交流を期待したい。


 


金森長近資料

まちの由来(資料文化財保護課)

金森

天武(てんむ)天皇(673686)のころ、吉野の金峰山(きんぶせん)から祭神(さいじん)をお迎えし、これ(こん)神社(じんじゃ)であると伝えられ、ここから金森という名が起こったという説があります。蓮如が(かん)(しょう)6(1465)年に道西を頼ってきて住み、布教した影響で一向宗の結束が強く、(ぶん)(しょう)元(1466)年の報恩講(ほうおんこう)をここで営みました。現在の御坊(懸所(かけしょ)は瓦葺き建物ですが、改築以前は、蓮如(れんにょ)()(通常、屋根にわらを葺く場合、稲の先端を上にするが、蓮如が逆に手渡したため、おそれ多いので逆のままで葺いた)建物として著名でした。(えい)(しょう)年間(15041521)(かわ)那辺(なべ)定成(さだしげ)が領主のころ、足利氏や六角氏に属していました。元亀(げんき)2(1571)年5月に守山、浮気、勝部で反信長の一向一揆が起こり、一向宗徒が金森城に立てこもって信長への反抗が続きましたが、翌年7月に落城しました。善立寺には楽市楽座を許可した『織田信長朱印状』が保存されています。当時は寺内町として、一帯の商業中心地になっていました。三宅との水争いで有名な()津川(つがわ)は、市内の川が枯れても金森はその後1カ月は枯れなかったそうです。かつて「石ノ塔」という土地にあった『懸宝塔(ほうとう)は、現在は御坊の境内にあり、国内三大宝塔の一つと言われています。また、蓮如が棒で地面を突いたところ、水が湧いて泉になったという伝説のある『蓮如池』や御坊一帯には『金森城跡』があり、「(しろ)ノ下(のした)」の地名が残っています。金森には『馬街道』や『志那街道』も通過しています。


会場 エルセンター  大会議室


受講生の声


・元亀争乱と金森では信長との兼ね合いについてよく理解できた。

金森長近では当市から歴史上の人物が出た事を初めて知り、もう少し勉強して当地区の散策を楽しみたいと思う。

・両市は恵まれた自然環境に活かされ郷土の先人の方々の足跡を知り、若い人達に関心を持ってくれることが大事で、今後両市の交流により、郷土愛が育むようなればと思う。

・自分の住んでいる町の歴史を知らずにいたが、その成り立ちなど教えていただき今後その歴史を感じながらもう一度道の造りや小川など細かい所に目を向けていきたい。

・金森町の歴史を知ることができて良かった。(昔から金森にはお城があったと聞いていたが)高山市と金森町とのつながりを知ることができ嬉しく思う。金森長近という名将がいたことも初めて知ることができた。

・金森町に偉大な歴史があるとは思わなかった。歴史に翻弄される時代ではあったが栄枯盛衰、取り上げられていない人たちを含め、波乱に富んだ時代があったことを痛感した。

・守山市と高山市のご縁が深いことにびっくりした。別添パンフレットでしっかり勉強したいと思う。

・地域の歴史文化を後世に引き継いでいくには学校教育とともに“地域の中”で誇れるまちづくりとして学習の場を設けることが大事である。引き続きこうした場を設けてほしい。

・町中を実際に歩いて見ると現場探索の機会を持ち地元の人が説明をすることも大事。

・「金森長近」という人物が守山の金森と関係していること、高山市と守山市の交流など、初めて知ることが多く感心した。守山の歴史等深く学べた気がする。

・松下先生:元亀争乱に金森が多いにかかわっていることを聞いて興味深く感じた。

 青谷先生:金森長近がかなり身近な人と感じた。

・史跡はわかりやすかった。高山との交流を!金森町として実施は。

・金森地域は信長と深くかかわりがあることを講座でわかった。 金森長近と高山市との関わりも受講してわかった。

・住んでいる金森町内のことを知りたいと思っていたがこの機会をつくっていただき感謝、寺内町としての時代の波、様子が理解できた。

・長近の金森町内での活躍が知りたかった。

・大変楽しく聞かせていただいた。長近さんが何処に住んでいたか興味がある。分かれば面白い。

・守山近辺の一向一揆について具体的にわかりたいへん勉強になった。また、金森の果たしてきた過去が明白になり今後も同様の講演に参加したい。

・2つめのお話は興味深いものでした。色々と新知見を得ました。マイクの入りが弱かったのが残念。





郷土守山に学ぶ研修講座Ⅱ 平成29年6月22日(木)午後1時30分から午後4時まで
ちょっと拝見 今浜のまち       
-ハマヒルガオ見学とお満灯籠-

「湖岸に咲くハマヒルガオを守る会 会長」 北川佳二さん

 

-ハマヒルガオを湖辺に育てようと思った経緯などは-
 定年退職後、シルバー人材センターから管理の仕事に携わっている時、友人からハマヒルガオの保全・育成をやってみないかと声をかけていただき、活動を続けていく中で馬渕会長の後を受け(現名誉会長)、現在にいたっています。


『ハマヒルガオは本来海辺の砂浜に生育する海浜性の植物で、淡水の琵琶湖岸に生育していることが興味のあるところである。なぜ海浜性の植物が淡水の浜辺にという疑問が生じるが、日本一の大きさをもつ琵琶湖の湖岸の環境が海辺の環境と似かようところがあるのではないかというのも要因の一つにあげられている。

守山市の琵琶湖岸なぎさ公園付近でのハマヒルガオの生育状況は1980年~1981年に守山市教育研究所が実施した湖辺地域の植生調査(担当所員 故 中村一雄)で確認、発表されている。この研究調査の発表を契機に、なぎさ公園付近に自生するハマヒルガオへの関心が高まり、その保護活動への気運が芽生えることになった。(ハマヒルガオの群生地から抜粋)』


-ハマヒルガオを育てるにあたり課題や苦労している所は-

台風の後には一面が水没したり、砂浜に土が混ざって雑草が増えるなど困難な状況に陥ったり、ハマヒルガオを好んで寄生するアメリカネナシカヅラが繁殖するため、その駆除などをしています。

会員は現在30名程度で各自治会当番制による美化活動を行っています。

速野学区民のつどいには、ハマヒルガオ饅頭の取り組みや展示を予定しています。

また、もりやま環境フェアーなどへ参加を促しながら「ハマヒルガオ」の啓発活動を積極的に行っていこうと思っています。

-ハマヒルガオの将来構想や速野学区について何かありますか-

継続して保全育成に努め、ハマヒルガオをもっと増やしたいと思っています。

速野学区は自然が豊富であり、多くの歴史資産もある。そういったものを大切にしながら日常生活の中でそれらを感じることが大切ですね。

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取材後記
 湖岸にハマヒルガオの看板が置いてあり、そこには「ハマヒルガオは海浜性の植物であり、昔、琵琶湖は海とつながっていた」という文言を見つけ調べてみると二つの説があることに気づいた。一つは琵琶湖が発生した所は伊賀上野地区で、鈴鹿山脈の河川が伊勢湾に流れていたことがあり海浜性があると。もうひとつは「近畿の丘陵」大阪市立大学理学部教授 市原 実 氏 によると古琵琶湖層群には、海成層はどこにもみいだせないと言っている。どちらが正しいか定かではないが、もし昔、琵琶湖が海とつながっていたら、、、。ロマンを感じるのは私だけだろうか?

ハマヒルガオ資料


 




お満灯籠資料


まちの由来(資料文化財保護課)

今浜

今浜は戸田の分れで、寛永(かんえい)年間(16241644)には石高が370石であったという記録があります。ここは湖岸地先で新田開発が実施され、新開農地が形成された場所で、お(まん)(とう)(ろう)にちなむ硫黄(いおう)夜祭(やまつり)」が行われています。

 灯篭の名前の由来は、「お満」という娘が鏡村(かがみむら)へ興業に来た力士「比良村の八紘(はっこう)(やま)」へ思いを寄せる物語が基となっています。

 力士は、百夜の願行が成就すれば妻にしてもよいといって自分への思いをあきらめさせようとしましたが、お満は人目を忍んで今浜の燈篭崎(とうろうざき)からたらいで対岸に通い始めました。その姿を見た力士は恐ろしくなり、九十九夜に灯明(とうみょう)を消したところ、お満は強風で水中に葬られました。

 その後、たらいは蛇体(じゃたい)となって今浜の岸につき、村人がこれから硫黄を作ったという伝説から毎年旧暦2月24日に硫黄夜祭の的を作り、樹下(じゅげ)神社(じんじゃ)に献上されています。(樹下神社の硫黄夜祭伝説物語より)比良八(ひらはっ)荒荒れ(こうあれ)(じま)い」という季節風にちなんだ言葉も、この伝説に関連するものでしょう。

 今浜も野洲川に隣接していて、かつては洪水に悩まされていた地域ですが、(はてい)防ぐ

ために粘土質の土を堤防の根本に貼り付けて補強されたようです。現地には、その記念碑が残っています。



コース紹介
エルセンター→ハマヒルガオ見学(美崎公園で講話)→お満灯籠→エルセンター

受講生の声
・お満灯籠は何気なくみていたのですが、案内していただきわかりました。
・ハマヒルガオの群生を期待していたのですが、時期がずれていたので、見ることができ
なくて残念でした。来年は時期を見て見学に行きたいと思います。守山の自生植物この少し
機会に勉強できて良かったです。黒田さんのお話最高です。
・ハマヒルガオをたいへん楽しみに参加しました。自然のために花が少ないのは仕方がないことだと思いますが、あまりの少なさにがっかりでした。時期を少し考えていただけるとありがたい。



郷土守山に学ぶ研修講座Ⅰ 平成29年5月25日(木)午後1時30分から午後4時まで
ちょっと拝見 三宅のまち                 
 -ほたるの森資料館と国登録有形文化財北川家住宅土蔵の見学-

ほたるの森資料館長 中島正一 氏

館長の中島正一さんに取材を敢行しました。

-ホタルの魅力はどんなところですか-

ホタルはわずかな期間、飛翔します。多数乱舞しているホタルも良いのですが、一匹、数匹で飛んでいる一瞬の輝きに永遠を感じます。幻想的で良いですね。

-館長になられて、抱負や課題などお聞かせください。-

ホタルの住める河川にしたいと思っています。今、そのためにさまざまな取り組みを開始しております。例えば「もぴかプロジェクト」の活動です。5,6年前からプロジェクトを立ち上げ、今年は「ほたるの森資料館」のAゾーンにホタルの幼虫を200匹放流しました。(ちなみに「もぴか」とはなんですか?との問いにホタルを知ってもらうキャラクターとのことでした。)また、資料館周辺の木を伐採し太陽の光を浴びた河川にしています。

ホタルの河川環境づくりとして、守山学区、吉身学区などの公民館に、ホタルの水槽を設置しており、カワニナなどを入れて育ててもらっています。今年は50匹程度学区の川に放流しました。市民の方の目線に“ホタル”を知っていただきたいですね。


-守山をどんな町にしたいですか-

ホタルの住めるまちづくりですね。ほたるの森資料館に来られる県外の方が「市街地に多くの川があるのは珍しい。」とよく言われます。その川を守り育てていく。ホタルの住める川になるよう取り組んでいきたいと思っています。

老若男女問わず、町を歩いていると、やはり川を見てしまうのですね。川には魅力がありますね。

取材後記

古高自治会長でもあり(2回目)、ほたるの森資料館長でもある。活躍の場がかなり広い。温厚で、誠実な人柄に温かさを感じるのは私だけではあるまい。怒った顔をみたことはない。大事なことを忘れていました。教育研究所の運営委員長でもある。

琵琶湖保全再生法が施行されて2年、クリーンエネルギーや環境問題がクローズアップされている。身近な所から、できるところから環境問題に取り組みたい。そして将来ホタルがさらに飛び交う守山を想像したい。

ホタル資料

   
 ほたるの森資料館



国登録有形文化財北川家土蔵 北川 茂喜さん


快活な印象、先祖代々北川家を守ってこられたという風貌を感じる。守山市で国登録有形文化財第1号となった経緯など縷々取材させていただいた。

 小雨の中、通りかかった人に「国登録有形文化財になった北川さんのご自宅をご存知ですか?」と問いかけると「そこの通りを左にいったところや」と即答であった。

かなり地元で知られていらっしゃるという思いを胸にご自宅に向かった。

-国登録有形文化財になった経緯は-

膳所城展に行ったとき、偶然にも家の瓦と同じ形のものが陳列してあり、不思議に思い、市の文化財保護課に問い合わせたところ、これは貴重な土蔵であるかもしれないと言われ、後日、県の文化財保護課の職員も来ていただき、文化庁登録部門担当者の実検の結果、三宅という集落内での北川家の蔵が他に見当たらない立派なものである一方、街道や交通の利便、水路交通も含め、十分国登録有形文化財に値するという結論に至った。ということです。


-国登録有形文化財の特徴は-

 建物の屋根を支える骨組みには梁を用いず、厚みが45センチメートルほどの大きな母屋桁を張るという特異な構造です。

-どうやって膳所から守山まで建物を運んだのでしょう-

 解体して骨組みだけを船路と陸路と両方から運んだと聞いています。


-ご自宅が国登録有形文化財になって、今までと変わったことはありますか?-

そんなに生活が変わったということはありませんが、電話等で聞いてこられる方には丁寧にお答えしています。

-三宅のまちについて何か感じていらっしゃることは-

 自治会活動が活発です。里中河川は昔、汚れが多かったのが現在、きれいな川になりコイがゆうゆうと泳ぐ環境になりました。自治会みなさんの協力の賜物です。また、蓮正寺や薬師堂など歴史資産も多い土地柄です。自然環境や歴史資産を後世に残しておきたいですね。

取材後記

みやけフォームの近江米「みずかがみ」が平成28年度「みずかがみ」食味コンクールで2度目の優良賞を受賞された。代表が北川 茂喜さんである。3月15日号の「広報もりやま」に市長とともに掲載されている本人を発見。「来年度はさらに上のランクの賞を目指して、、、。」というコメントに意気込みが伝わってきた。


北川家土蔵資料

 

       
北川家土蔵      


   
   



もりやまの町の由来(文化財保護課) 

三宅

 日本書紀の安閑(あんかん)天皇2(525)年の条に「(あし)(うらの)屯倉(みやけ)」の記録があり、その範囲は草津市芦浦町から三宅町を含む一帯であったと考えられています。蓮生寺(れんしょうじ)の伝承によると「()(とう)天皇7(693)年に都賀山(つがやま)のふもとに(こさけの)(いずみ)が湧き、このときに(いち)()の薬師如来を造った」とあり、同町薬師堂に安置された薬師如来(国指定重要文化財の木造仏頭)がそれであろうという説があります。また、蓮生寺は山号が都賀山であることから、古くから益須寺(やすでら)の推定地の一つとなっています。本堂は元和元(1615)年に再建され、それ以前は長楽寺(ちょうらくじ)と呼ばれており、近世初期の真宗寺院建築を示す県指定建造物です。慶長年間になって、長 楽寺屋敷は要衝の地として代官駒井猪之(こまいいの)(すけ)を置いたことが残されています。蓮生寺とその付近には三宅城跡を示す土塁があり、寺へ通じる道も約100mほどで数回屈曲し、まっすぐ進めない道路となっていて、中世三宅城の痕跡だと思われます。

 (しょう)養寺(ようじ)は、元は天台宗で(しょう)林寺(りんじ)といいましたが、中世に真宗に転派しています。新羅(しんら)三郎(さぶろう)の16代の孫、青木(あおき)下野(しも)(つけのかみ)(ゆう)(せい)応仁2(1467)年に建立したと伝わっており、境内にオハツキイチョウの木があります。薬師堂にはかつて地中に埋まっていたという仏像の断片が多数保管されていて、大規模な寺院のあったことがうかがわれます。また、熊野神社は熊野信仰による和歌山県熊野神社の祭神を(まつ)っています。


コース紹介
エルセンター→ほたるの森資料館→国有形文化財北川家土蔵→エルセンター

受講生の声
・とても楽しかった。ホタルの色々なことがわかってよかった。
・知っているよう様で知らなかったホタルの生態。おもしろかったです。ホタルの幼虫があれほど貪欲にエサを食べるなんて少々恐ろしい。北川家など守山市でも知らないことが色々あることがわかりもっと知りたいと思いました。たいへんよかったです。
・ホタルのことが深く理解でき、これから見学するたび楽しみになりました。北川家についても、りっぱな蔵を見ることができ、昔の方の知恵のすばらしさも知ることができました。
・今回では北川家土蔵の見学は実にすばらしく、その見学の機会を与えていただいたことに改めて喜びを覚え感謝いたします。この歳になっても史跡や文化財・探訪のすばらしさ(興味)は止まらず、また、次の機会を得させていただければぜひ出席させてください。
・ホタルについて深く知ることができホタルの観察に興味がわきました。北川家の蔵については見学ができ喜んでいます。
・ホタルに関して詳しく説明していただき知らなかったことがたくさんわかって勉強になりました。今、ホタルの出る時期なのでまた、見に行こうと思います。
北川家の立派な土蔵を見せていただき、歴史を感じました。管理、維持が大変だなと思いました。貴重な物を見せてもらい参加してよかったです。

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