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郷土守山に学ぶ研修講座Ⅱ 6月23日(木)13:30~16:00
ちょっと拝見 下之郷のまち 杉江のまち
-下之郷史跡公園ともりやま芦刈園-

講師紹介(下之郷遺跡)

文化財保護課 川畑 和弘さん




  メガネの奥から語るその柔和な言葉には誠実の二文字がぴったりと合う。専門は日本考古学で弥生時代。わかりやすい語り口、きめ細やかな表現がとてもうまく、日ごろから気配りのできる方なのだと感じる。

職員になられて20数年、今回、下之郷遺跡についてアプローチを試みた。


-職員になられた動機は-

 出身は福岡。中学生の頃、実家の近くに遺跡が多く、先生に連れられてよく発掘調査や遺物拾いを行い、それが縁で文化祭の行事など、展示会を催すまでになりました。

 恩師から大学に行って深く考古学を勉強してみてはという言葉に後押しされ、古代史を勉強、守山市の職員として働くようになりました。


 -下之郷遺跡の特徴は-

第一はムラの周りに大きな環濠が掘られており、実は滋賀県で一番大きいものなんです。全国でも5本の指に入ります。

二つ目は地下水が豊富で出土遺物の保存状態が良いという点です。

三つ目は戦いの道具がたくさん出ている点です。縄文時代から古墳時代に移っていく中でムラ社会からクニ社会に変化をしました。特に日本のクニが誕生した謎をこの下之郷遺跡から探ることができるのです。ムラからクニへ弥生時代には100個程度のクニが統合されて約30個になっていきます。その過程で激しい戦いがあったのです。そして、国王が誕生するまでになりました。


-特に力をいれているところ、見どころは-

個人的には二つ目の地下水が豊富なため遺物の保存状態が優れているところですね。年代測定や環境分析など、科学技術が発達しています。遺跡をしっかり調査すれば守山の弥生人の生活様式が如実にわかります。地下にはすごい情報が隠されています。今後慎重に調査をしていきたいと思っています。また、弥生時代の生活環境を復元することが大切ですね。遺跡は保存するだけでなく、それを現代にどう伝え、どう活かしていくのかが非常に大事なのではないでしょうか?

社会の利便さやスピード感は大切ではありますが、自給自足やゆっくりとした時間の流れなどもう一度原点を見直すキッカケになればと思っています。


-苦労したところ、課題について-

遺跡の保護を進めていくには、地域の方々の協力が必要です。ところが弥生時代は、

2000年以上も昔の話で、今の生活感覚とは距離がありすぎます。弥生遺跡の大切さや魅力を言葉で説明するのは難しいので、「もの」を見て、比較して、感じ取れるような仕掛けづくりに苦労しています。

例えば、農業の話しをする時には、弥生時代の「クワ」「スキ」など土を耕す道具と昭和初期のものと、現代の「トラクター」を比較して、いかに進化してきたのか、あるいは退化してきたのか、考えられないかと思います。弥生の生活と現代の生活が、地域の中でつながっているということを、どこかで実感できないかと思うからです。

弥生時代と昭和30年代と現代を物や人でつなぐ作業はおもしろくもあり苦労の連続ですね。(昭和30年代にひっかかり私の方からなぜ30年代なのか質問をすると、「高度成長時代」という言葉が返ってきた。)

現代人は、物質的には豊かさを勝ち得たように見えますが、ものづくりの技や身近な自然を利用する知恵は、現代よりも昔の方が優れていたようにも思います。

地元の農業や漁業など、忘れがちな伝統文化の魅力を、遺跡のうえに立ち一緒に考えることができればと感じています。


もりやまのまちの由来 (資料文化財保護課)

下之郷のまちについて

下之郷の名は、旧守山村の下流(西)側にあるのでこのように呼ばれたのでしょう。また、守山を甲とし、下之郷を守山(おつ)としたころがありました。

 昔は、石田川の水が大変きれいだったので米を()ぎ、食器や野菜を洗い、風呂の水にも使いました。また、特産であった里芋(きれいな里芋で煮炊きしても中が真っ白)を守山や大津に売りに行く前、石田川で芋洗いをしました。「きんちゃく茄子(なす)」も有名で大津や近江八幡でも喜んで買われました。中山道から琵琶湖へ出る最短路として石田川の船曳(ふねひ)き道が利用され、町内にもその道が残っていました。江戸時代には現在の川幅の倍以上もあったと推定されます。この川の水流などを利用して2カ所に水車があり精米や製粉がなされていました。八代(はったい)神社は、延徳(えんとく)元(1489)年、現在のお旅所(たびしょ)(まつ)られていましたが、宝暦(ほうれき)4(1754)年、本殿が野洲川の氾濫で流失し、「見田(みた)」というところで発見されたので、ここに鎮座したという伝えがあります。祭神は綿津(わたつ)(みの)(かみ)で、航海安全の守護神です。町内にはかつて城があったのでしょうか、「城屋敷」、「下屋敷」、「中屋敷」と呼ばれるところがあります。

現在の集落を覆うように下之郷遺跡があります。県内最大の弥生時代の巨大多重環濠集落遺跡(国指定史跡)で、堀のような環濠には弥生時代の生活用品のほか、シカ、イノシシ、魚の骨、昆虫、植物の種子、稲、花粉などが埋もれていて、弥生のタイムカプセルと言われています。


もりやま芦刈園管理メンバー紹介

花名のアジサイの語源は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が有力であるとされています。江戸時代に長崎の出島に滞在して医療と博物研究に従事したシーボルトは、愛する「お滝さん」にちなみ「オタクサ」という名をアジサイにつけました。花言葉の「移り気」はアジサイの花の色が開花後に変化することからきています。(インターネットより)






  取材日、少し風が強いなぁと感じながら入口の門をくぐるとドアがパァーと開くような解放感。「もりやま芦刈園」である。

日本と西洋のアジサイがそれぞれ50品種、5,000本、計10,000本も植栽されている。



 5人の方が待っていて下さった。(もりやま芦刈園はシルバー人材センターの職員さんたちに保守管理していただいている。)


「男」とは田に力と書く。5人の方の発する言葉や顔じわから、今も、人生を生ききっている風貌が感じられる。

 

―アジサイを保存していく中で苦労している点は―

 2年前、アジサイがあまり咲かずに大変苦労した記憶があります。天候では雨が大切ですね。雨が降らない季節は心配です。観光客の方たちに、もりやまのアジサイを良い状態で見てもらうための作業がなかなか大変ですね。


―どういった作業ですか―

 すみずみまで水をやることですね。(面積は20反ほどあるそうです。)肥料ではチッソ、リン、カリウムなど与えています。「今年もきれいな花を、、、。」と愛情込めて育てることが大切ですね。


―地域とのかかわりなどありますか―

玉津地区、小津地区の同じシルバー人材センターの方たちとも(約50人)協働で除草作業を行っています。(年3回)


―珍しいアジサイなどありますか―

 真っ赤な花を咲かせる「ワシア」です。特に見てもらいたい花ですね。

 また、「アナベル」は緑から白に変化し、緑に戻る花です。


―見ごろはいつですか―

 今年は6月11日(土)、12日(日)にアジサイフェアーがあります。県外からバスで来られ、駐車場が満杯になります。一日2,000人程度来られるのではないでしょうか。たいへん賑わっています。


―県外はどちらから来られますか―

 大阪、神戸、三重あたりが多いですね。

 県内の方も合わせると年間23,000人程度、来ていただいています。



終了後園内を散策してみた。5月16日(月)の取材であったため、まだ、アジサイは咲いてはいませんでしたが、職員さんたちの手塩にかけたアジサイが、「今か、今か」と咲きこぼれるがごとく、力強い生命力を感じた瞬間でした。


もりやまのまちの由来 (資料文化財保護課)

杉江のまちについて

 町名の由来は、「小津神社の杉木立から」という説と「(すげ)繁った港、すげ江が杉江になった」という説があります。町内には『延喜式(えんぎしき)神名帳(じんみょうちょう)』に記載された小津神社があります。

 同神社は、小津の(きみ)()(しん)としていましたが、後、(しゅ)(しん)宇迦乃(うかの)御魂(みたまの)(みこと)(まつ)りました。

女神像として著名な宇迦乃(うかの)御魂(みたまの)(みこと)座像と本殿が国の重要文化財に指定されています。境内には多数の社が鎮座するほか、岩風呂が保存されています。岩風呂は、長さ約2m、幅約1m、深さ約60cmの大きな岩をくりぬいたもので、室町時代ごろの作と考えられ、当時の貴族や有力者が使ったものと思われる大変珍しいものです。境外には安土桃山時代の三之宮本殿(市指定文化財)があります。また、かつて神宮寺(じんぐうじ)であった()泉院(せんいん)が神仏分離で境外に出され、現在は護摩堂(ごまどう)と呼ばれています。

 (みょう)然寺(ねんじ)は元、江上山(こうじょうざん)清浄院(しょうじょういん)阿弥陀寺(あみだでら)と言われていましたが、寛永(かんえい)年間に明然寺と改めたと伝えられていて、「山門(さんもん)西塔(さいとう)北谷(きたたに)正蔵院(しょうぞういん)什物(じゅうもつ)」の銘のある(しょく)(だい)などがあるほか、本草は、「浮足(うきあし)弥陀(みだ)」として、知られています。正光寺(しょうこうじ)は、明応(めいおう)6(1497)年に草庵を設け、延宝(えんぽう)4(1676)年に現在の寺号になったとされています。


-コース紹介-
エルセンター→下之郷史跡公園→もりやま芦刈園→エルセンター


下之郷史跡公園・遺跡資料

もりやま芦刈園資料



―受講生の声―

・晴天に恵まれ、やさしいあじさいの花々に接し心安らぎました。下之郷遺跡にも以前から興味を持っていましたが、とてもわかりやすく説明していただき守山のことをもっと知りたいと思いました。

・下之郷遺跡を初めて伺って先人のすばらしさ、知恵に感動しました。もりやま芦刈園も多彩なお花に出会い大変良かったです。

・下之郷遺跡での説明を受け、より守山に愛着が湧きました。もりやま芦刈園も大変良かったです。

・守山の歴史に興味があり大変ありがたい企画だと思います。できれば“下之郷のまち”では学芸員の方ともう少し時間をいただきお話を伺いたいと思いました。

・下之郷遺跡では興味深いお話を聞けました。なんといっても復元した器に直接触れることができて驚きと感動でした。もりやま芦刈園は想像以上でした。広さも花の種類、美しさもとてもよかったです。

・下之郷遺跡でのお話は大変おもしろくすばらしい町に住んでいることに誇りに思いました。川畑先生のお話もわかりやすく弥生時代にタイムスリップした感じでした。

・天候に恵まれ、あじさいがとてもあざやかで見ごろでした。

下之郷史跡公園は川畑さんのお話がとても興味深く守山の歴史の深さに感心しました。
                                                      



郷土守山に学ぶ研修講座Ⅰ     5月26日(木)13:30~16:00
ちょっと拝見 古高のまち  ―古高俊太郎と古墳塚―

講師紹介

黒田 玲子 さん(守山市ボランティア観光ガイド協会会員

    円熟したガイド説明には受講生を磁石のように引き付ける。その魅力、人となりにスポットを当ててみた。  

流れるような言葉の数々。人を感動させる術を心得ていらっしゃる。私の第1印象だ。


「市民に守山を知っていただく。」このことを胸にボランティア観光ガイドの会員になられて早13年。ある時は「守山案内します。」と看板を持って街頭に立ったことも今では懐かしい思い出です、と語る。守山に人が来ないのも駐車場がないから・・・、とつぶやくこともあり、その語り口にはいかにも「守山」を愛しているという側面が伺える。

  




―「守山」もっとどんなふうになればいいですか―

 観光客、お客さんがいて、自分の見たいところが回れる、ワンストップバスのようなものがあってもいいのでは、、、。 トイレも簡易トイレが多く、障害者トイレなどを備えた、ちゃんとしたものを増やしても良いように思う。

―「守山」のどこを変えればもっとよくなりますか―

 やはり中山道でしょう。沿道沿いの家が変わっていくのが寂しいですね。昔の風情をとり戻すことが大切ですね。

―「守山」の好きな場所、紹介したいところは―

 立入町、岡町です。立入城跡、西隆寺、立入宗継(たていり むねつぐ)など、なかなか面白いところがあります。

―今後の抱負は―

 若い人たちがもっと「守山」に来てもらうこと。私は京都より優れているところはないと思っていましたが、この「守山」は京都と東京(江戸)を結ぶ道としてロマンがあります。中山道や守山宿いいですね。

と話される表情、その目の奥にはボランティアガイドとしての誇り、経験、そして何より「守山」をこよなく慈しむ素顔を垣間見た思いでした。


古高のまちについて (資料文化財保護課より)―

 古高は、旧栗太郡物部村に属し、十郷湧(じゅうごうゆ)出庭(でば)、千代、二町など十村の農業用水)の最下流の村であったので水には大変苦労されたところです。大将軍神社は、社伝によると「正暦(しょうりゃく)年間(990995)に創始、社殿は応仁の乱で焼失し、山内(やまのうち)政綱(まさつな)の命を受けて三上(みかみ)満実(みつざね)が再建した」とあり、後、長享(ちょうきょう)元(1487)年に兵火にあい、再建されたと伝えられています。

 毎年、正月に栗東上砥山(かみとやま)から「しきみ」をうけ、神社に勧請(かんじょう)()りを飾ります。また、古くから干ばつのときに、雨乞い踊りをし、恵みの雨をもらったときに鼓踊(こおど)り(県選択無形民俗文化財で道行(みちゆき)、お礼踊りなど19の歌詞と踊り)が奉納されました。

 (えん)成寺(じょうじ)は、「日像上人開基、本堂(むな)(ふだ)(えい)(にん)6(1298)年草創」、専光寺(せんこうじ)は「承応(じょうおう)元(1652)年創立」と伝えられています。福寿院(ふくじゅいん)は、幕末の勤皇の志士「古高俊太郎」など古高氏の菩提寺で、西側の墓地には市内で最大の「イヌマキ」の木があります。福寿院の隣に「古高俊太郎」の顕彰碑があります。元治(げんじ)元(1864)年に新撰組に捕われ、後に斬殺されましたが、明治241891)年に政府から(しょう)五位(ごい)を与えられ、大正3(1914)年に栗太郡教育会が顕彰碑を建立しました。町内には「新屋敷」「南・西・東屋敷」など城郭に関連する地名があるほか狐塚(きつねづか)(まつ)(づか)幸田(こうだ)(つか)古墳、豪族の館跡や準構(じゅんこう)造船が発見された下長(しもなが)遺跡があります。



―コース紹介―                                                                                          

エルセンター→古高俊太郎顕彰碑→圓成寺→専光寺→大将軍神社→狐塚古墳→松塚古墳→幸田塚古墳→エルセンター

   

古高の鼓踊り・古高俊太郎資料

 古高俊太郎顕彰碑  

―受講生の声―

・古高俊太郎と大将軍神社に行きたくて参加した。古墳がたくさんあるのにびっくりです。でも埋められているのが残念。

・古高古墳じっくり探索し深めたい。

・守山市民(学区民)であり、古高の近くに住みながら今回のように詳しく訪れたのがよかった。人生の終章をまじかに控えて良い勉強になった。感謝してる。参考までに15年から25年前では史跡めぐりが好きで機会を得て歩き回っていた。今後とも体力が続けば、また、参加したいと思う。

・守山にも古高俊太郎という立派な方がいたのを知った。次の機会も参加したいと思う。

・古高俊太郎については郷土の古老の著作の力作により理解でき通説と少し違うことがわかった。妹の系列が本願寺~皇室につながっていることに驚いた。

・古墳群は大事な郷土遺産であり、詳しい調査をもう一度お願いしたい。

・古高俊太郎顕彰碑が見られてとてもよかった。古墳群巡りをやってほしい。

・古高の中に学ぶべき事がたくさんあり、勉強になった。家に帰ったらもう一度資料を読み返し今日の学習の確認をしたいと思う。

・黒田さんの名調子いつもながら感服です。




   

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